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(東京都墨田区東墨田「鳩の街」)


昭和二十年五月、玉ノ井で戦火に逢った業者四軒が向島須崎町の一角に開業したのがそもそもの始めだから典型的なアプレ型。
遊廓の古い暗さからすっきり抜け出た感じが、民主主義の愛するところとなり、荷風老も鶴田浩二もタヌキ大臣も一度は寝たというのがこのシマの安直さで、石切り場の向こうに赤い灯がちらついてくると大尽も労働者もいそいそとしてくるのが鳩の街である。
吉原をプロとすればセミ・プロから素人までの若い子が多く、それだけに気分本位で、交渉にもむらがあり、一人の女が場合によっては九百円でも泊めてくれるし、二千円出しても泊めてくれない時がある。
と言っても、それは銀座通り、栄町通の目抜き四、五十軒で後はいずこも同じ既製品店である。このシマの女たちは惚れっぽいのが多く、すぐに結婚へ走ったり、出戻りしたり、不良のヒモがついたり等々、出入りが激しい。
吉原のように、その三分の二ぐらいは根を下ろして、じっくり女郎道にいそしんでいるといった女はわりに少い。
月額二万余円の送金負担というが如き首枷・M枷に縛られた女は案外少く、割合単純に恋の盲目となる。
そこがまた鳩の街の信条であり、若い者に人気があるユエンである。

(『全国女性街ガイド』)




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鳩の街通り商店街(水戸街道側の入口)
鳩のマークが見える



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鳩の街通り商店街
戦災に遭っていなかったこともあって、戦前建築が目に付く。



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表通りから裏路地にいったん入れば......


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戦前の木造町家の1階をカフェーに改装したものが多い


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鮮やかなパステルカラーの市松模様の豆タイル張り


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こちらも鮮やかなブルーの豆タイル張り円柱のアパート



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転業旅館「桜井」(商店街側)



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転業旅館「桜井」(裏側)
窓の下にはうっすらと進駐軍に向けた"OFF LIMITS"が書かれていた


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この時点ではまだカフェー建築が結構残っていた方だったが......



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豆タイル張りほど派手さはないが円柱とアールをが残るお宅


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鳩の街通り商店街の東側、東向島一丁目側にカフェー建築が集中して残っていた



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一方の反対側、向島五丁目側は昔ながらの古い町家が集中する典型的な下町風景



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水戸街道側から望む完成されたばかりのスカイツリー


* * * * *


戦後東京の紅燈街でもっとも人気が高かったと言われる「鳩の街」。
尤も地名として存在したものではなく、当時の地番は”向島区寺島町一丁目”、現在の墨田区東向島一丁目と向島五丁目にまたがっていたエリアで、ちょうど向島花街と隣接していた。
昭和20年3月の東京大空襲で焼け出された私娼街「玉の井」の業者が移転先として目につけたのが、戦災を受けていなかったこの地域で、昭和20年5月に数軒でスタートした。
終戦後は進駐軍兵士が多く出入りし、”Pigion Street”と呼ばれていたのが日本語訳されて「鳩の街」と呼ばれたとされる。
後に進駐軍兵士の出入り禁止、いわゆる”オフリミッツ”を受けて赤線に移行。
素人で若い女性が多かったことに加え、永井荷風の戯曲『春情鳩の街』や『渡り鳥いつかへる』が舞台・映画化されたこともあって、新興色街として評判を呼ぶ。
件の荷風以外にも吉行準之助、安岡章太郎、三浦朱門、小島功など多くの文人も足を運んだとされる。
昭和30年時点で113軒に約450人の女性が働いていたという。

初めて鳩の街を訪れたのが2012年5月、生憎の雨模様だったが、濡れた路地に赤線の残滓が並ぶ風景が却って風情高まった。
転業旅館「桜井」を始め多くのカフェー建築も健在で、それが『赤線跡を歩く』に登場する”OFF LIMITS”の建物だったのを帰ってから知り、しっかり撮っておけばと後悔している。
あれから何度か訪れるごとに空き家が増え、遺構の数が減ってきているのをひしひしと感じる。


(訪問 201205)



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