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(東京都江東区東陽一丁目「洲崎」)


新潟、富山女が多く、体力的にサービスしてくれるのが特色だが、もう一つの特色はマワシの多いこと。百十一軒五百六十名ほどの女の半分がマワシ専門ということだけあって、一時過ぎたと岩倉具視〈五百円〉でも泊れる。
この里の、更にもう一つの特徴は女の出逢うのが七時すぎという遅さで、そのかわり草木も眠る時分まで店を開けている。客筋は、木場の旦那集をはじめとして、大工、左官など職人、工員、船乗りといった安直な人たちばかり。この洲崎パラダイスは、正しくは二つの組合に分裂していて、洲崎カフェー商業組合に属するもの七十四軒四百名。検診は月火と木金。設立は戦後すぐだがアブレ派の集まり。古い暖簾の店がこれにあきたりず第二組合をつくったのが新洲崎カフェー商組、三十七軒、百六十名。検診は水、木曜。サービスは古い暖簾が二十六年につくった、この洲崎民同の方がいい。遊びは四百円、泊り千二百円。
(『全国女性街ガイド』)




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洲崎パラダイスの入口に架かっていた「洲崎橋」跡地 かつての水路は遊歩道に




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洲崎橋跡から望む大門通(仲之町通り) この辺りに「洲崎パラダイス」のゲートがあった
この通りの突き当りは海だった



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路地の突き当りに堤防が残る 向こうには水路があった




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近年まで現存していた遺構 戦前は「橋本楼」、戦後は「サンエス」という屋号だった



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独特な外観の一軒 こちらは現存



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かつては独特なファサードのバルコニーだったが改装されている



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独特な形状のバルコニーが並ぶ




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閑静な住宅街となっている中に現存する飲み屋 色街の残滓の特徴でもある


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洲崎パラダイス外郭の飲み屋街



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洲崎神社 洲崎パラダイスの地番だった「洲崎弁天町」の由来になっている



戦後に「洲崎パラダイス」と呼ばれていた赤線街の痕跡を求め、初めて足を運んだのが2011年11月で、10年も前の話だ。
当時の地番は「洲崎弁天町」で、現在は江東区東陽一丁目、最寄り駅は東京メトロ東西線の木場駅。
駅を降りたって途中にあったのが洲崎神社、「洲崎弁天町」の由来になっているので、何かしら手掛かりになるのはと思っていたが皆無だった。
以前はカフェー建築も多くあったそうだが、「大賀」をはじめとする建物はすでになく、青い柱を持つバルコニーを持った独特の外観を持つ一軒が最大の収穫だった。
のちにこの建物が「サンエス」という屋号のカフェーだったと知るのだが、後に解体され、跡地にはマンションが建つ。

色街としての「洲崎」の歴史は明治21年に遡る。
根津にあった遊廓が東京帝国大学の近くにあって学生の風紀を乱すからけしからんとの理由で、江戸時代造成された埋立地に移転してきた。
『全国遊郭案内』によると、
「移転当時は僅々数十軒の同業者に過ぎなかつたが、今日ではすでに二百六十八軒に殖え、娼妓も約二千五百人程居る。引手茶屋も十九軒あつて、廓内には芸妓も大小合わせて約八十名程居る」
という。
戦時中に軍需工場の寮として接収を受けた後、東京大空襲で焼失、戦後に進駐軍相手の慰安施設を経てカフェー街「洲崎パラダイス」となるが、大門通りの東側(洲崎弁天町二丁目)にカフェーが集中していたという。



(訪問 201101・201801)

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