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(東京都八王子市田町)

夕暮時はねずみ啼きもきこえて来ようという、東京周辺では昨今めずらしい色里である。明治三十二年十月建立の石の大門をくぐれば、小砂利を敷きつめた玄関の奥まった店や、文明開化作りの青楼など十五軒、暮色蒼然と軒をつらねている。都心からわずかの遠征で、これだけの古典的風物に接するとは、日本も見捨てたものではない。
古い暖簾は豊水閣、あけぼの、和可水、広陽、福万、紅家と大どころが続いていて、本部屋、引つけ共にどっしりした昔風のつくり、五徳の上で鉄瓶がちんちんたぎっている長火鉢に差向かって、長キセルではないが、ヒカリを吸いつけ煙草で出してくれるのも昔の吉原と変りはない。「パチンコで取ったのよ」と花魁ならぬ徳飲女給に付け加えられるのが当世流くらいなものである。
夜桜から新緑へ、それか紅葉へと浅川堤がすぐ裏だから妓と逢う瀬も、馴染みようによってはたのしみになる。たいした美人もいないが五十八名、青年より壮年向き。検診は水曜。
(『全国女性街ガイド』)



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八王子駅からバスに揺られて10分以上の場所に旧遊廓「田町」がある。


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メイン通りに残る妓楼



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かなりの奥行きがある妓楼 塀には屋号らしき透かし彫りも見られる


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並びにもう一軒残っている

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裏手から俯瞰してみる 広大な敷地には倉庫や工場などに利用されている


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妓楼の裏側


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大門があったと思われる場所からメイン通りを望む


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大門通から伸びる通りに料亭らしき一軒

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奥の玄関に扇の欄間が見える


甲州街道の宿場町であった八王子は、江戸時代から飯盛旅籠が街道沿いに点在していたが、明治30年の大火を機に浅川沿いの田んぼが広がっていた地に150メートル四方を切り開いて遊廓として一角に集めた。
「田町」という町名はそんな経緯からできたもので、現在も町名として残っている。
中央通りに御影石の大門が置かれ、中央に桜と柳の木が並んでいたという。

八王子町田町遊廓
東京府八王子市田町にあつて、八王子駅西北八丁位の地点にあつて自動車なら五十銭電車なら高尾行市電で郵便局前に下車、西へ約四丁位ある賃六銭明治初年には甲州街道にある宿場であつて、飯盛女が娼妓の様な役を演じて居つたのであるが、明治卅年頃八王子の大火に見舞はれ見る影もない姿になつた。それ以後八王子の発展が止まつたと言はれて居る。此大火の後に現在の土地に集つて遊廓を成した物である。現在貸座敷十四軒、娼妓約百人位居つて居稼制で、写真又は陰店を張つて居る。娼妓は東北人も相当居る様であるが、戸籍面では東京人が大部分である様だ。八王子は家々に依つて遊興費の御定りが違て居るので人に依つて高いと言ふ人もあれば安いと言ふ人もある。だが一般平均して見ると甲六円、乙五円見当で酒付が普通定りである。又一時間なら二円位であるし、一泊でも丙は三円、丁は二円五十銭位になつて居る。芸妓も呼べる一時間二本であるから一時間一円二十銭、小は一時間六十銭である。附近には八幡神社、高尾山、城山城址多摩御陵があり、東京近郷の最適当のピクニックの場所である。
〈後略〉
(『全国遊郭案内』)


八王子市街は空襲の被害を受けていたものの、街外れだった田町遊廓は戦災を免れ、往時の妓楼を残したまま赤線に移行。
赤線廃止後も転業旅館やアパートとして使われ、現在なお戦前築の妓楼が2軒現存している。
東京都内で戦前の遊廓遺構が残る場所は、八王子以外に存在していない。

一方、八王子は桐生や足利と並ぶ絹織物の一大産地でもあり、旦那衆相手の花街が街道の南側「中町」を中心に広がっていた。

中心地は横山町の南裏「中町」であって芸妓屋の七分通りと待合の約四分通りが此処に集中し、次に西隣の「南町」から横山町、本通を向ふへ越へて元横山町にかけて散在してゐる。
料理屋 十四軒。待合 三十六軒。芸妓屋三十九軒。芸妓大小併せて 百五十名。
(『全国花街めぐり』)



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現在も健在の八王子花街「中町」 黒塀と石畳の小道が続く


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古い待合のような建物も残っている


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所々に凝った意匠を見せている料亭「花の家」

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検番「八王子三業組合」

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芸妓置屋「ゆき乃恵」



(訪問 201812)

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