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(茨城県水戸市奈良屋町)

花街は舟橋聖一が筆おろしをしたとつたわる鳥見町に十五軒、大工町に七軒、昔の練兵場よりの谷中町に十一軒。芸妓は合せて九十名。
特飲は、群馬県と同じ廃娼県、よく寝るというので「駱駝屋」と愛称を持つ私娼が奈良屋町一帯に四十軒、酌婦も百三十六名いる。
(『全国女性街ガイド』)




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赤線があった「奈良屋町」は旧町名で、現在は宮町。東照宮の下にある。


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現在の奈良屋町、飲み屋が並ぶ通りがある


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東日本大震災の影響で消えつつあるカフェー建築が唯一残っていた


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入口はモダンな感じの木枠


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全景


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円窓を持つお宅は『赤線跡を歩く』に登場する「旅館だいはつ」だった



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空き地が目立つ「奈良屋町」界隈 背後に大型マンションがそびえる


『全国遊郭案内』に記載されている茨城県の遊廓は平潟、磯浜、取手、筑波、潮来、中田、古河の7か所で、県庁所在地の水戸や土浦、日立といった人口が多い都市には遊廓の設置が許されていなかったのは特記すべきだろう。
水戸の遊興の場は「駱駝屋」と称された私娼街で、駱駝はよく寝ることから私娼(酌婦)の別名で呼ばれていた。
水戸の私娼街は東照宮の脇にあった「奈良屋町」で、戦後は赤線として存続し、木村聡氏の『赤線跡を歩く』にはカフェー建築や転業旅館など多く残っているのを目にする。
ところが、あの東日本大震災で水戸も少なからず被害を受けたようで、空き地化されていたのが目立っていたのはかつてあったカフェー建築が取り壊された跡だったのだろう。

一方、水戸の花街は上市の「大工町」、下市の「竹隈町」の2か所が『全国花街めぐり』で紹介されている。
上市は旧武家街、下市は旧町人街だが、古くから反目しあっていたようで、花街もそれぞれ分かれて存在していた。
「大工町」は料理店と芸妓屋が水戸二業組合を組織、「竹隈町」は第一料理店組合と下市芸妓組合があるのみで二業組合となっていない。
「第一料理店」という名は、「駱駝屋」と称される料理店と区別するためにつけられたのだろう。
『全国花街めぐり』における花街の規模は

大工町花街
芸妓屋 三十六軒。 芸妓 百十一名。 芸妓の出入する料理店 十七軒。 待合 二十八軒。
竹隈町花街
芸妓屋 十軒。 芸妓 大三十名。小八名。 料理店 本橋、末広、大黒屋別荘、外五軒。 待合 末よし、まねき、釜金、文の井、魚金、外五軒。


という感じだった。 


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大工町花街 巨木で今にも崩れそうな木塀が


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現在の大工町花街は特殊浴場街になっている
昭和40年代に入り、多くの待合が特殊浴場に転業したといわれる


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駐車場の裏手にそびえる特殊浴場「クイーンシャトー」の廃墟


一方で水戸にはもう一つ、歩兵第二連隊の練兵場格の近くに「谷中花街」が存在していた。
『全国花街めぐり』には掲載されていないが、恐らくは軍属専用の花街だっただろうか。


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『赤線跡を歩く』に登場する石畳のある旅館


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現役割烹「冨久住」


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桂岸寺門前の町並み 谷中花街はこの一帯中心に広がっていた


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国道沿いに出たら銅板看板建築が長屋状に連なっているのがあった

(訪問 201311)

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