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(神奈川県川崎市川崎区南町)

「妓楼の二階には娼妓たちが冴えない顔をあらはした。あちこちの妓楼からもしどけない身なりのまま外へ出てきた。さうしたことには構ひなく父親のつれびきで男の子と女の子は松の木を盾に浪花ぶしをうなりだした。うらがなしい旅情をむねにうったへてくる。立花楼の二階からはぴち紙包みが投げられた
『太郎姐さん』
呼ばれて今二階から真先に紙包みを投げ与へた女がふりむいた」
日本浪漫派の素朴な労働者作家、緑川貢が昭和十年に『娼婦』という作品で、おとなしい蓮華草のような花魁を描いた頃の堀之内花街〈六郷堤の近く〉は、情緒もあり真実味もあった色里だったが、軍需工業のあおりで荒らされ、一トン爆弾空爆で姿を変え、現在は四十三軒の店二百九十七名の女が、春をひさいでいるいずこも同じ赤線風の町になってしまった。
(『全国女性街ガイド』)



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堀之内のメイン通り「稲毛通り」 大人のお風呂屋さんが密集している


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メイン通りから外れた細い通りにも店が並ぶ


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大人のお風呂屋さんに混じって、黄金町にあるものと同じような店舗が見られる


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「小料理」の看板が掛けられているが......


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赤線の雰囲気を残す一角

 
川崎の色街と聞いて真っ先に浮かぶのは「堀之内」だろう。
実際に、東海道川崎宿が多摩川を越えてすぐの場所に設けられ、飯盛女を抱えた旅籠屋が多かったのだが、明治以降にそれらを一か所に集めて遊廓として設けられたのが「堀之内」......ではなく、別の場所だった。
「堀之内」といえば関東では吉原と並ぶ特殊浴場街として知らない人はいないのだが、古くは「六郷堤の色里」として賑わいを見せてきた花街だった。
その様子は、冒頭で引用した『全国女性街ガイド』でも紹介されている、緑川貢の小説『私娼』でうかがうことができる。
昭和初期にはバーや映画館、カフェーなどが集まる新興繁華街として賑わうが、昭和20年の川崎空襲で焼失。
戦後は特殊飲食店街として復興し、赤線廃止後に「京浜トルコ」が開業してのちの特殊浴場街につながる。
その一方で、横浜の黄金町と同様に「スナック」「小料理店」の名の下で女性が客相手をする店が混在している。

では、川崎の遊廓はどこかということだが、「堀之内」から南西へ1㎞ほど、現在の川崎駅の程近くにある「南町」にあった。
明治37年に宿場町の飯盛旅籠を集積して「南町」に遊廓を開設。
『全国遊郭案内』によれば、
「現在の人口約十万に対して、貸座敷が十九軒、娼妓約百九十人は少々過剰の傾向にあるにも拘らず、其れを難無くこなして行く処に新興の気鋭が覗はれる。尤も客の二三分通り迄は東京及横浜の好事家であると云ふ噂である」
という遊里で、遊廓の周辺にも飲食店や遊戯場などが立ち並ぶ繁華街として、工場労働者やその家族で賑わったそうだ。
この「南町」も「堀之内」と同様に戦災に遭い、戦後は赤線となる。


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南町に入ると「川崎ロック」という大人の劇場に出会う


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「堀之内」ほどではないが、ここも大人のお風呂屋さんが多い


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「堀之内」と異なるのは、それと分かる外観の建物が点在して残っている事だろう


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転業旅館だったのだろうか、そんな雰囲気が漂う


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『赤線跡を歩く』では「酒亭かの子」と看板があった一軒


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未舗装の細い路地にも小料理店の看板を掲げる店


赤線廃止後の「南町」もまた、「堀之内」と同様に特殊浴場に混じって「スナック」「小料理店」の名で営業を続けている店が点在している。
川崎の「堀之内」や「南町」、横浜「黄金町」や町田駅裏「田んぼ」などでは、昭和末期~平成初めには”じゃぱゆきさん”を抱えて客相手の営業をしていたが、度重なる摘発を受けることになる。
「黄金町」「田んぼ」は完全に浄化されてしまったが、川崎の二ヵ所は細々と営業を続けている感じに見えた。

『全国女性街ガイド』では「堀之内」には詳細に記述があるが、「南町」については市中の青線と共に簡潔にこうまとめられている。
市の中心に、もう一つ南町赤線というのがあるが、これは味もそっけも消えはてた労働者用赤線で、このほか国電駅周辺に出没する二十名ほどの辻君と、安のみ屋の青線街も、ともに屑鉄の臭いのするシマある。

(訪問 201212)

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